舞浜海洋国家

東京ディズニーシーの建築やBGSについてつらつら書くブログ

エクスプローラーズ・ホールで見る地中海の歴史

こんにちは!すっかり春休みに入りめちゃくちゃ暇なはずなのに、一向にやるべきことが進まないまま過ごしています。ブログの方も書きたいことはあるのに中々手をつけることができていません。自分なりのペースでやるのでどうぞ暖かい目で見てくださると嬉しいです🙇‍♂️

 

そんなわけで、今日はフォートレスの中の情報庫『エクスプローラーズ・ホール』についての記事を書こうと思います。とはいっても何分情報量が凄まじく、全部書こうとすると時間と労力がかかりすぎるので、今回は割とさらっと書いていくつもりです。

また予め断っておきますがこの記事に書くことは全て僕個人の解釈に基づくもので、決して確定的な情報を伝えるものではありません。こういう見方もあるんだなあ程度に読んでくだされば幸いです。

 

もうだいぶ前の記事になってしまいましたが、まだ読んでいない方は本題に入る前に、以前の僕の記事を読むことをお勧めします!

tsubasan0924.hatenablog.com

エクスプローラーズ・ホールとは

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わからない人のために一応説明しておくと、『エクスプローラーズ・ホール』(上記写真)はディズニーシーのウォークスルー型アトラクション『フォートレス・エクスプロレーション』の中にある一室のことを指します。2002年に講談社さんより出版された『完ペキ攻略ガイド 東京ディズニーシーのススメ』に記載されている説明文が簡潔でしっくりきたので、そちらを引用させていただくと

●冒険家の業績を称えるエクスプローラーズ・ホール

16世紀までの探検家や冒険家の肖像画が通路の両側が描かれ、その下方に描かれた絵が、彼らの成し遂げた偉大な業績を伝えています。肖像画の人物は、誰もが知っているヴァスコ・ダ・ガママルコ・ポーロをはじめ、ヨーロッパでは有名なレイブ・エイリークソン、フランシス・ドレイクなどで、彼らの名の多くは、「ディズニーシー・トランジットスチーマーライン」の船名にも使われています。

とのことです。 要するにこの部屋では色んな歴史上の人物とその業績を学べるというわけですね。部屋の肖像画と壁画の全体像を下に載せておきますが、見てわかる通り(?)肖像画の人物とそれぞれの下に描かれている事柄がなんとなく対応しているんです。ということは、肖像画に描かれている人物が12人ですので、一見ごちゃごちゃしているように見える壁画も12個のブロックに分けることができます。そのように分けて見ると多少なりとも壁画を見やすくなるのではないでしょうか。(一部おや?と思うところもありますが...それについては後ほど書きます。)f:id:Tsubasan0924:20220302010726j:image
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でもってタイトルにもあるとおり、この部屋から読み取ることの出来るざっくりとした地中海沿線の歴史について今回は紹介していきます。それではいってみましょう。

 

古代の地中海世界

この部屋において、まずは古代の地中海世界から話は始まります。その地中海世界とは、地中海沿岸でポリスと呼ばれる都市国家を形成したことで知られる古代ギリシア、そしてアレクサンドロス大王の遠征によってその領土がアジアや現エジプトまで広がったとされるヘレニズム世界のことを指します

紀元前4世紀頃に活躍したピュテアスマッサリア(現マルセイユ)生まれの地理学者で、彼の肖像の下には、彼がグレートブリテン各地を訪れたことを示す地図が描かれています。

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ピュテアス(紀元前4世紀頃)

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紀元前325年頃に航海したとされるピュテアスですが、この地図ではラテン語で地中海周辺の地名が書かれています。ここで特に注目したいのが地図上で最も上に書かれているTHULEで、この「トゥーレ」とはヨーロッパ古典文学上の伝説の地の名前です。それについて最初の記述をした人物こそがピュテアスとされているんですね。

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さらに地図の下には初期のガレー船のようなものが描かれています。古代ギリシアで誕生したガレー船は、帆走することも漕ぐこともできるという特徴を備えているものであり、地形が複雑で風向きの安定しない地中海で重宝されてきました。f:id:Tsubasan0924:20210323212318j:plain

 また、この壁画にはヒエログリフのようなものが描かれていることから、紀元前3000年頃から始まる古代エジプトを表したと思われるものがあります。古代の地中海世界の広がり、または文明の誕生を示しているのでしょうかね。f:id:Tsubasan0924:20210323212312j:plain

 

そんな中、初めは都市国家として台頭してきたローマが、紀元後には帝政ローマとして地中海域を統一する大国家へと成長していきます。このローマ帝国期に活躍した天文学者が有名なクラウディウスプトレマイオス(83〜168頃)です。

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クラウディウスプトレマイオス(83〜168頃)

彼は2世紀にエジプトのアレクサンドリアで活躍したということ以外、その生涯こそ謎に包まれているものの、彼が大成させた天動説は、後に誕生するキリスト教の教えと合致することも相まって、およそ1300年もの間支持され続けることになります。下の写真の絵はプトレマイオスが天体観測をしている様子で、中心に地球が位置している渾天儀が置かれています。下の127ADという表記は彼が天体観測を始めたとされる紀元127年を表しているのでしょうね。f:id:Tsubasan0924:20210324204201j:plain

また、彼の作製したプトレマイオス世界図』は科学的な最初の世界図と評価され、こちらも後の世まで浸透していくことになるんですね。エクスプローラーズ・ホールではプトレマイオスの著書である『地理学』を基にして再編成されたとされるものが描かれています。f:id:Tsubasan0924:20210324204217j:plain

イスラームの台頭

さて、古代ギリシア、ローマで華開いた文化たちは、古代の終焉(基本世界史では、476年の西ローマ帝国の滅亡を古代の終わりとすることが多いです。)とともにヨーロッパでは地に埋もれてしまうことになります。そこで文化の担い手として登場するのが、東のイスラーム世界ビザンツ帝国(東ローマ帝国)です。特にイスラーム世界では、古代の叡智であるギリシア語の文献を次々とアラビア語へと翻訳していき、哲学、数学、天文学、地理学、化学などを発達させていきました。中世世界において、文化や学問の中心地はイスラームだったというのはよく聞く話ですよね。少し話が長くなってしまいましたが、ここエクスプロラーズ・ホールでもその一部を見ることができます。例えば、後のヨーロッパでも幅広く愛用される天文観測機器アストロラーベイスラームで大成されたものです。実際アラビアンコーストの何箇所かでもアストロラーベを見ることができます。f:id:Tsubasan0924:20220302110008j:image少し細かい話になりますが、ここに記されている830ADという数字は、イスラームにおけるアストロラーベの製作者アリー・ブン・イーサー・アストルラービーが活躍した時期と一致します。

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そしてこの部屋に描かれているイスラームの人物が、モロッコ出身の大探検家として有名なイブン・バットゥータ(1304〜1368)です。著作『三大陸周遊記(旅行記)』でも知られています。

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イブン・バットゥータ(1304〜1368)

f:id:Tsubasan0924:20220302122831j:imageエクスプロラーズ・ホールではご丁寧に彼が旅したとされるルートまで示されていたりします。これを見ると彼が中国の北京(当時は元の首都であった大都)までたどり着いていたことがわかります。

f:id:Tsubasan0924:20220302113835j:image上記写真の1325とはイブン・バットゥータがメッカ巡礼に出発した年のことであり、その上に描かれているのはムスリム商人が使用したダウ船だと思われます。主にインド洋で使われ、三角形の帆が特徴的な船ですね。ちなみにアラビアンコーストに停泊してるのもダウ船であり、またディズニーシーのアトラクション『シンドバッド・ストーリーブック・ヴォヤッジ』においてシンドバッドが乗っているのもダウ船だったりします。

f:id:Tsubasan0924:20220302113838j:image1352年はイブン・バットゥータがマリのトンブクトゥを訪れた年で、隊商の奥にうっすらとトンブクトゥのモスクのような建築が描かれているのが分かります。あまり馴染みがないかもしれませんが、トンブクトゥは当時金と岩塩と交易する塩金貿易で栄えた都市として有名です。西欧では「黄金の都」なんて呼ばれていたそうですね。

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ノルマン人の侵攻〜商業ルネサンス

話をヨーロッパに戻しましょう。中世ヨーロッパでは9〜11世紀にかけて人口が急増したことによりノルマン人が西欧各地に侵入、彼らは海に進出し、半ば海賊行為に近いものもありましたが、各地で交易を行うようになります。あのコロンブスよりも約500年前である1000年ごろにアメリカ大陸を発見したとされるレイフ・エリクソン(970頃〜1020頃)もその1人でした。

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レイフ・エリクソン(970頃〜1020頃)

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彼の肖像画の下(上記写真)には、彼が航海したであろう北大西洋の地図、航海した時期である1000A.D.という記載、ヴァイキング船と見られる船とお馴染み(?)の風を吹く顔が描かれています。レイフ・エリクソンについて細かいことはここでは割愛しますが、強いて注目することといえば上記地図左下に書かれている“VINELAND“という記述です。この北米にあるヴィンランドと呼ばれる地は彼が到達し、彼が名付けた土地でもあります。現在におけるニューファンドランド島ではないかという説が有力です。また、僕は聞いたことある程度なのでよく知りませんが、漫画『ヴィンランド・サガ』のタイトルに使われているのも同地なようですね。

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ノルマン人のヨーロッパ侵攻が終わると、一時は衰退していたヨーロッパの商業が再び活気を取り戻すことになります。11〜12世紀に起こったこの商業の復興をベルギーの歴史家ピレンヌは商業ルネサンスと呼びました。この際に台頭したのが遠隔地商業で栄えた北イタリアの2つの都市、前回のタイトル決定についての記事でも触れました、お馴染みのヴェネツィアジェノヴァです。これら2つの都市が交易で蓄えた富が後のイタリアン・ルネサンスが起こった一因になります。

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エクスプロラーズ・ホールにも肖像画が描かれている有名なマルコ・ポーロ(1254〜1324)ヴェネツィア生まれの商人でした。

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マルコ・ポーロ(1254〜1324)

折角なので彼の肖像の下にある絵にも目を通してみましょう。

f:id:Tsubasan0924:20220303220406j:imageまず上記の絵左上に描かれているのは中国商人が利用してきた木造船で、現在でも使用されているジャンク船です。中国の船といったらまずこのフォルムが思い浮かびますね。先程紹介したダウ船が三角形の帆であるのに対して、こちらは四角形をしているのが特徴です。真ん中に書かれている1271という数字は、マルコ・ポーロが父に連れられて旅に出発した1271年のことを表していると思われます。少し調べてみたところ、その右側に描かれているのは一行がビザンツ帝国の首都であったコンスタンティノープルを出発するときの絵で、その下に描かれているのはカンバリク(元の首都大都、現北京)にあるフビライ・ハン(の息子?)の宮殿らしいです。

f:id:Tsubasan0924:20220303220404j:image続いて、1275という数字はマルコ・ポーロが大都(北京)を訪れた年であり、その下に描かれているのは甘粛(現在の内モンゴルの南、新疆ウイグル自治区の東にあたります。)周辺の様子だそうです。そこには古代から存在が信じられてきた三体の巨人が描かれています。その特徴とインパクトから一部のDオタの間でカルト的人気を誇っているとかいないとか。

上記の絵はマルコ・ポーロの著作(厳密には彼が獄中で口述)である『東方見聞録(世界の記述)』の挿絵を模したものだと思われます。余談ですが、パーク内で中国に関するものは数少なく、(意図的に減らしている気もしますが)その中の1つがここです。

ルネサンス

さあ、いよいよ本命のルネサンスに入っていきます。というのもここエクスプロラーズ・ランディングが成立した時代というのがまさにルネサンス期、そして同時期の大航海時代だからですね。ルネサンスに関してはメディテレーニアンハーバー内の至る所でその意匠が見られますが、それについては今後別の記事で紹介します。

簡単にまとめると、ルネサンスというのは当記事の最初の方に紹介したプトレマイオスを始めとする古代の叡智を当世に甦らせるとともに、キリスト教が支配的だった中世観を打破し、人間の価値の再発見を目指した運動のことです。とは言っても、カトリックの宗教的な権威を否定し、体制改革を伴った同時期の宗教改革とは違い、あくまでルネサンスは教会中心の体制は維持するというものでした。

前置きはこれくらいにして、本題に戻ります。エクスプロラーズ・ホールに肖像画が飾られているルネサンスの人物といえば誰もが知るレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519)です。彼については、S.E.A.の設立年代に関する記事で触れましたね。

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レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519)

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ルネサンス人文主義においては、科学と芸術を両極端なものとしてみなしてはいませんでした。その証拠に『モナ・リザ』や『最後の晩餐』などの芸術作品で知られるダ・ヴィンチは、それらと同じくらい革新的な科学や工学に関する研究を行っていました。彼の肖像画の下に描かれているのが彼が発明したものの数々です。f:id:Tsubasan0924:20220303230025j:imageダ・ヴィンチの手稿に描かれていた、翼、羽ばたき機、プロペラエンジン、戦車などが描かれていますね。

さて、ルネサンスの学問における大変革といえば、ポーランド天文学者コペルニクスが『天球回転論』で説いた地動説が有名です。科学的にも証明されており、今では一部の人を除き地動説を疑う人はいませんね。しかし当時、聖書の記述に反するその説に当然ながら反発の声が無かったわけではありませんでした。デンマーク天文学者ティコ・ブラーエ(1546〜1601)もその1人でした。彼は自身の天文台を建て、膨大な数の星の観察を続けました。その際に使用したとされる彼の渾天儀などもそこには描かれています。

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ティコ・ブラーエ(1546〜1601)


f:id:Tsubasan0924:20220303231047j:image左から、台座付きの六分儀、黄道式渾天儀、方位角四分儀であると思われます。

コペルニクスの地動説が発表されて以後も、敬虔なプロテスタントとして天地創造の中心は地球であるという旧約聖書の言葉を無視できなかったブラーエは「ティコ体系」と呼ばれる独自の宇宙モデル(下記写真)にたどり着きます。f:id:Tsubasan0924:20220303231045j:image実際彼の理論はコペルニクスのものを多く取り入れていましたが、あくまでも宇宙の中心に位置するのは静止した地球でした。その周辺を太陽や月が回り、水星、金星、火星、木星土星は太陽の周りを回る。それがブラーエの結論であり、その特徴から「修正天動説」とも呼ばれます。

大航海時代

最後に、フォートレスについて話す上で語ることのできない大航海時代についてです。中学校の歴史にも登場するテーマなので、なんとなくでもご存知の方も多いのではないでしょうか。言わずもがなですが、フォートレスの位置するエクスプロラーズ・ランディングは主に大航海時代の冒険家、探検家たちが集い、そして旅立って言った冒険の拠点でもあります。

こちらも簡単に説明しますと大航海時代とは、中世の終わりから近世のはじめまで、ヨーロッパ諸国(主にスペイン、ポルトガル)が強大なイスラームによって塞がれたアジアへの道を切り開くため、新たな航路を模索し、発見した時代です。具体的には1415年ポルトガルのセウタ(ジブラルタル海峡南岸の都市)攻略から1648年のウェストファリア条約締結までを指すそうです。もちろん以前の記事で紹介した1538年という年もこの期間に含まれます。

そろそろ本題に戻りますが、まずエクスプロラーズ・ホールに肖像が飾られているのはポルトガルジョアン1世の息子であるエンリケ航海王子(1394〜1460)です。

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エンリケ航海王子(1394〜1460)

ポルトガルの領土拡大に奮闘した彼は、イスラームの根強い社会基盤にそれを遮られてしまったことで、航海への進出を決意します。1416年、彼はポルトガルの最南西端のサグレスと呼ばれる場所一体に大航海センターなるものを設立したとされています。(現代において明らかになっていない部分も多く、後世の創作が大半であるという見方もあるようです)エンリケはこの航海学校にスペイン、フランス、イングランドなど様々な国から学生や教師を集め、腕利きの航海者を養成します。惜しまれながらも昨年9月に放送が終了した番組『夢の通り道』では、フォートレスのモデルとしてこのサグレスの要塞が紹介されていました。(公式サイトのバックナンバーは見られなくなってしまっていますが、代わりに載せているサイトを見つけたので、リンクを貼っておきます。)

www.dreamagic.jp

そして彼の肖像の下にあるのがこちらの絵です。f:id:Tsubasan0924:20220314010441j:image岬の上に立っているのがエンリケだとすると、背景の建物はサグレスの要塞ということになるのでしょうか。ただ建物の中央に金色のドームがあったりと、フォートレスの見た目と少し似ているような気もします。イマジニアが多少意識して描いたのでしょうかね...?そして気になるのが1411という数字です。1411年にエンリケ航海王子に直接関わる出来事は確認できず、強いていえば、彼の父ジョアン1世がカスティリャ王国と和平を結んだとされる年ですが、そもそも先程の僕の仮定だと年代が矛盾してしまうので正直わけがわからないです。僕の方ではこれが限界なので、有識者の方いらっしゃいましたら是非教えていただけると助かります🙏

エンリケの登場以降、様々な人物が航海へと乗り出しますが、少し時間が進んで1492年、かのクリストファー・コロンブス(1451〜1506)が西洋人の中で初めてアメリカ大陸を発見します。(但し前述のように、それ以前にもアメリカ大陸にたどり着いた人物がいたという話もあります。)

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クリストファー・コロンブス(1451〜1506)

東向きではなく、西向きに航路をとってアジアへ達しようというコロンブスの発想の裏にはフィレンツェ天文学者トスカネリ(1397〜1482)の地球球体説がありました。(実際には、地球が丸いものであるということは、当時の知識人にとっては常識でした。)ルネサンス初期の中心的人物であったトスカネリは、彼の学説に心酔したコロンブスから手紙を送られ、彼のことを激励したとされています。実際にはトスカネリにしたがって導いたコロンブスの計算は大幅に誤っており、コロンブスは自身が到達したアメリカ大陸のことをインドだと信じたまま生涯を終えることになります。

そんな彼の肖像画の下に描かれているのがこれらの絵です。f:id:Tsubasan0924:20220314174436j:image上の地図には、大西洋を挟んでヨーロッパ、アフリカの向こう側にコロンブスが発見したアメリカ大陸が描かれています。(ちゃんとした写真を持ち合わせておらず、不鮮明で申し訳ありません🙇‍♂️)その下に描かれている絵は比較的よく見る絵で、コロンブスが新大陸に上陸したときの様子を描いているものですね。とはいえこの絵は16世紀末のスペインで、想像といくらかの偏見によって描かれたものであり、実際のコロンブスと先住民たちの様子を描いたものではない可能性が高いです。

続いてこちらも中学校の教科書レベルの人物ですが、1498年にポルトガル王マヌエル1世のもと、ヴァスコ・ダ・ガマ(1469〜1524)が東回りでのインド航路を開拓します。

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ヴァスコ・ダ・ガマ(1469〜1524)


f:id:Tsubasan0924:20220314221326j:imageこちらの絵(上記写真)に関しては元ネタが見つかっておらず、詳細はわかりませんが、ガマがインドのカリカットに到達し、領主ザモリンに謁見しているときの絵でしょうか。(間違っていたらすみません。)右下にはスペイン語で「ポルトガル国旗」と書かれた旗が描かれていますね。

f:id:Tsubasan0924:20220314220419j:imageその下に描かれている地図と矢印は言うまでもなくガマの辿った航路を示しています。アフリカの喜望峰を超えて、インドへと向かったことがうかがえます。左下には船が描かれていますが、ガマの艦隊の旗艦サン・ガブリエル号でしょうか。

コロンブスヴァスコ・ダ・ガマときたらその次にくるのはフェルディナンド・マゼラン(1480〜1521)ですよね。同じくフォートレス内にあるレストラン『マゼランズ』でもお馴染みの人物です。

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フェルディナンド・マゼラン(1480〜1521)

彼は現インドネシアにある香辛料の産地モルッカ諸島への西回り航路の開拓を目指し、就任したばかりのスペイン王カルロス1世(1500〜1558)の援助のもとで大西洋に進出しました。マゼランは南アメリカ大陸の南端へと到達し、彼が名付けた大洋である太平洋を通過し、フィリピン諸島へとたどり着きますが、その後現地の島民との争いにより1521年に刺殺されてしまいます。翌1522年、様々なトラブルに苛まれながら生き残ったたった18名の船員がスペインの港へと帰着し、彼の艦隊は事実上の世界周航を成し遂げました。

f:id:Tsubasan0924:20220314225239j:image上記の絵の上側には、マゼランにちなんで名前がつけられているマゼラン海峡を渡っている船団が描かれています。その下に描かれているのは彼が名付けたとされるパタゴニアの様子だと思われます。かつて同地にはパタゴンという巨人族がいると信じられており、そのため上記の絵では人が巨人のように描かれているのでしょうね。

ja.wikipedia.org


f:id:Tsubasan0924:20220314225242j:imageその下に描かれている船は、マゼランの5隻の艦隊の中で唯一スペインに帰着し、世界一周を成し遂げたビクトリア号でしょう。2005年には復元されたものが日本にも訪れたようですね。

大航海時代に世界の覇権を握り、隆盛を極めたスペインやポルトガルもじきに勢力が衰えていき、代わってオランダやイギリスが台頭します。中でもイギリスは1588年のアルマダ戦争でスペインの無敵艦隊(アルマダ)を破ります。そのイギリスの覇権争いに一役買ったのが私掠船船長として世界周航を成し遂げたフランシス・ドレーク(1543〜1596)です。

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フランシス・ドレーク(1543〜1596)

彼は元々海賊でしたが、スペインへの海賊行為が時のイングランドエリザベス1世によって認められ、女王認可のもと海賊行為を続けます。下記の絵は、おそらくドレークがエリザベス女王によってサーの称号を与えられた際の絵だと思われます。f:id:Tsubasan0924:20220315000154j:imagef:id:Tsubasan0924:20220315000157j:imageゴールデン・ハインド号は彼の艦隊の旗艦で、5隻あった中で唯一マゼラン海峡を通過し、世界周航を成功させました。

ちょっとした疑問

以上でエクスプロラーズ・ホールに肖像が飾られている12名の人物とそれに関連する絵、歴史のざっとした説明は終わりになります。ですが、最初の方にちょこっと話したとおり、明らかに肖像画の人物とその下の絵が対応していないパターンが見られます。下記の写真を見てもらえれば分かると思いますが、マゼランとドレークの肖像画の位置は本来逆である方が正しいはずです。(なのでこの記事では人物と絵が対応するように紹介しました。)f:id:Tsubasan0924:20220315004417j:image

同様のことはヴァスコ・ダ・ガマとティコ・ブラーエでも見られます。(下記写真参照)
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ちなみにコンセプトアートの方ではヴァスコ・ダ・ガマとティコ・ブラーエの肖像画はしっかりと下の絵画に対応するように配置されています。写真をお借り出来ないので、下にサイトのリンクを貼っておきます。これは意図的なものか、それとも単に誤って肖像画を飾ってしまっただけなのでしょうか…?小さいことではありますが、多少気になる点です。

jungleskipper.com

 

というわけで、冒頭でさらっと書いていくと書いた割には、それなりにボリュームのある記事になってしまいましたが今回の記事はここまでです。もっとも細かい部分はかなり端折ってるので、もっともっと突き詰めて調べていくことはできると思います。そのようなことについては今後労力があれば書いていくつもりです。(一生書かないかもしれません笑)

記事の更新をお待ちしていた皆さん、遅くなってしまい申し訳ありません。更新ペースはこんな感じだと思いますが、今後もよろしくお願いします。

最後になりますが、ここまで記事を読んでくださりありがとうございます🙇‍♂️ 皆さんのコメント、意見、指摘等をお待ちしております。

それでは!